HuRP通信 2022/07/30
「慰霊の日」のオキナワ
シュガーローフの戦いの説明板と慰霊搭
6月23日は、沖縄戦「慰霊の日」である。この日、1945年6月23日
(※1)は日本帝国陸軍牛島満中将が自決し、日本軍の戦いがなくなった日とされる。しかし、牛島は最期の訓令で「最後まで敢闘せよ」と遺したことから、その後も戦いは散発的に続き犠牲者も出し続けた。あくまで、「日本軍として」の組織的戦闘が無くなった日として、沖縄ではこの日を、沖縄戦で亡くなった全戦没者を追悼する日と定め、日本復帰前から休日としている。
僕は、かねてから、この慰霊の日に訪沖をしてみたい、と思っていた。コロナ禍前の例年なら、沖縄県庁前から最後の激戦地であり「平和の礎」がある摩文仁まで臨時シャトルバスが運行されていたのであるが、コロナ禍が治まらなかった今年も、密集を避けるため運行が中止された。遺族ですら時期をずらしてお参りをしている状況なので、摩文仁はあきらめて、沖縄戦の初期の激戦地を訪ねることにした。
前田高地に数々ある慰霊碑のひとつ。
慰霊碑一つひとつに花が供えられた
沖縄県庁前からモノレールの“ゆいレール”に7分ぐらい乗ると、激戦地となった安里52高地(シュガーローフ)がある那覇市の新都心おもろまちに到着する。敗戦直後に米軍の住宅地区として接収され、その後日本へ返還されて、90年代後半から開発された街である。街は整然とした道路が施設され、複数の大きなショッピングセンターや公園、高層マンション、県立博物館などが建ち並ぶ。その一角の給水タンクのところにシュガーローフの戦いの慰霊塔はある。分かりにくい所に設置されているのもあって、普段は人があまりいないのであるが、慰霊の日の朝は、地味な色のかりゆしを着たおそらく近所の人、休日出勤前のサラリーマン風の人、間を置かずにお参りの人がやってきていた。夕方の地元ニュースで知ったのであるが、供えられた花には、沖縄在住のウクライナ人有志からのものもあったらしい。
浦添警察署に掲げられた半旗
さらに、新都心おもろまちから“ゆいレール”に15分ぐらい乗ると、前田高地(ハクソー・リッジ)の最寄駅に着く。前田高地は、もともと浦添城があった場所で、琉球王国が成立する前の三山時代の一時期、中山王国の中心地だった事もある。その後、沖縄戦では激戦地となり、映画『ハクソー・リッジ』の舞台にもなった。駅からの急坂を登った丘からは、米軍が最初に上陸した渡具知周辺・普天間基地・嘉数の丘、逆を向けば、首里城・新都心おもろまちと、沖縄戦の初期の重要地点を臨むことができる。僕が前田高地へ登った時は、小学生たちがボランティアの人に引率されて、平和学習をしていた。祖母、母、子供の3代で散歩をしている家族の姿もあった。正午が近づくと、数々の慰霊碑に一つひとつ花を供える老夫婦もあらわれ、老若男女問わず次々に丘の上へ人が登ってきた。そして、正午の合図に合わせて僕も黙祷をした。
6月23日は米軍の軍事訓練は行われない。普天間基地のそばに位置する前田高地は、いつ行ってもオスプレーや輸送機などが低空でひっきりなしに通過するのであるが、慰霊の日の前田高地は静かであった。帰り際、丘を下ったところにある浦添警察署を何気なく眺めてみると、半旗になっていることに気がついた。国籍
(※2)や立場を超えて、みんなで平和を願い誓う、普段の旅行とは違うオキナワの姿をみた。
(GINZO)
前田高地からみた普天間基地方向の風景
(※1) 6月23日の自決決行日には、諸説ある。牛島満中将の孫の牛島貞満氏の著書『第32軍司令部壕』(高文研、2021)の中では、牛島家では命日は22日、そして戸籍上の死亡日は20日になっているのだそうだ。慰霊の日は現行のままでいいとしつつ、圧倒的な数の証言が残されている司令官でさえ決行日が定かでない杜撰な国の調査内容で、一般の兵士なら、どのような扱いをされているのか、と憤りを記している。その上で、動員した国の責任は「『英霊』として祀り上げられて解決するものではない」と記している。
(※2) 沖縄戦に、韓半島や台湾や樺太の出身者も動員され、多くの犠牲者が出た事は、忘れてはいけない。