HuRP通信 2022/08/30
「済州4・3」を知って考えたこと
映画「スープとイデオロギー」は、1948年、「済州4・3事件」の渦中にいた当時18歳の母の生涯について、娘(ヤン・ヨンヒ監督)が紡いだドキュメンタリーだ。恥ずかしながら、私はこの1948年に済州島で起こった虐殺事件について、何も知らなかった。済州島というと、韓国ドラマの舞台になったり、豊かな自然や海の幸が取り上げられる観光地、という認識しかなかった。
この映画を観たあとに、私の中には2つのことが残った。国政と戦争に翻弄される個人の人権を目の当たりにして感じる、深い悲しみ。そして、日本の戦争責任についてだ。
年老いた母が、娘にはじめて語る「済州4・3事件」の悲劇。朝鮮総連の熱心な活動家だった両親は「帰国事業」で3人の兄たちを北朝鮮に送った。父が他界した後も息子たちに借金をしてまで仕送りする母を責める気持ち。娘は母が体験した虐殺事件を知る中で、なぜ両親が頑なに「北」を信じるのかを理解し始める。
一方で、壮絶な体験の記憶を掘り起こしていく母は、アルツハイマー病を患い、ここに居ないはずの夫や息子を呼ぶようになる。2018年4月3日、済州島の4・3平和公園で行われた70周年追悼式典に、母を連れて行った娘の想いが非常に重く、深い悲しみが伝わってくる。
「済州4・3事件」とは、1948年4月3日、済州島での武装蜂起に始まり、その武力鎮圧により3万人近くの島民が惨殺された事件だ。第二次世界大戦後、ソ連との対話に見切りをつけたアメリカは、朝鮮半島の戦後処理を、国連監視下での選挙による新国家樹立として計画したが、ソ連がこれを拒んだ。
これにより朝鮮半島の南部のみの単独選挙を行うこととなり、単独選挙による南北分断に反対した左派島民が武装蜂起を起こしたのだった。300人あまりの規模で起こした武装蜂起に対し、南朝鮮当局は政府の鎮圧軍、警察および反共団体による大弾圧を行った。朝鮮戦争(1950〜53年)の時期までに130余りの村が焼かれ、1954年9月までに3万人近い島民が犠牲となった。犠牲者の大半は、「イデオロギー」とは無縁の島民たちだった。
第二次世界大戦において、朝鮮半島を植民地として支配していた日本は、敗戦により東アジアにおける戦争責任を負うべき立場だった。それにもかかわらず、戦後処理をめぐる当時のアメリカとソ連の思惑が重なり、朝鮮半島と朝鮮民族の解放と独立は歪められ、日本が負うべき負債は、朝鮮半島と朝鮮民族に転嫁される形となった。この映画を観て、日本の戦後責任について、改めてその重さを痛感した。
「タイトルには、思想や価値観が違っても一緒にご飯を食べよう、殺し合わず共に生きようという思いを込めた。」とヤン・ヨンヒ監督は伝える。オモニ直伝の「黄金色の鶏スープ」をヨンヒ監督の夫・カオルさんが一緒につくるシーンでは、ヨンヒ監督は二人に話しかけながら撮影する。映画には、あたたかい家族の愛も溢れている。
次回の渡航先と、その目的が決まった。済州4・3平和公園を訪れ、韓国が負の歴史をきちんと残すことで、平和と人権の教育を実現していることを直接見たいと思う。そして今後HuRPとして平和のために、新たにどんな活動ができるかを考える機会としたい。
(MO)
『スープとイデオロギー』公式サイト